丸亀高等学校竹内元校長の部屋

丸亀高等学校竹内元校長が綴る平成26年度から平成29年度までの学校の様子。丸亀高等学校ならではの行事や学校生活の様子をお伝えしています。集会での校長講話も掲載しています。

2018年02月

 平成30年2月28日(水)
 本日、学年末試験が終了しました。来年度へのステップにして欲しいと思います。
 3時間の試験終了後、午後から、第2体育館において卒業式のための歌唱練習と大掃除を行いました。その後は、久しぶりに運動場や体育館から、元気な生徒の声が響いていました。
 明日は3年生が登校して、賞状等授与式、卒業式予行が行われます。

 平成30年2月23日(金)
 今日から土日を挟んで28日(水)までの4日間、学年末試験が行われています。1年を締めくくる試験です。しっかりと準備をして全力で取り組んで欲しいものです。なお、定時制は19日(月)から行っており、今日で終わります。

 平成30年2月22日(木)
 2年生のSGコースの生徒がプロデュースしたミニ丼が、食堂の協力を得て販売されました。本日限定販売で、韓国風、ガパオライス風、タイ風の3種類となっています。私もいただきました。米の販売促進を考えた「niceなrice」班が食堂とコラボレーションしたものです。食べた後は、生徒のアンケートに答えました。

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 平成30年2月21日(水)
 通信制が毎月1回発行している丸亀通信2月号に記載した内容です。
          「終始一誠意」と「斯文在茲」
 通信制の皆さんは、丸亀高校の校訓「終始一誠意」や本校の文化祭である「斯文祭」の起源である「斯文在茲」(「しぶんざいじ」、「しぶんここにあり」と読む。)を意識したことがありますか。
 社会人になったとき、出身高校の校訓を心に留めている人がどれくらいいるでしょうか。それどころか、出身高校の校訓を聞かれても、答えられない人のほうが多いのではないでしょうか。しかし、丸亀高校の校訓「終始一誠意」は、卒業生に深く浸透しており、同窓生に会って丸亀高校の話になると話題に上ります。年齢を重ねるごとに徐々に響いてくる言葉であり、私自身も常に意識していたわけではありませんが、人と関わりを持つ中で、仕事をする中で、この言葉の重みを感じています。
 「終始一誠意」の大意は、人の正しい心の在り方として「始めから終りまで事に当たって、また、人に対しての真の心即ち真心を以て対し、持するところの節を変えない」ということです。校歌を歌う機会も少ないとは思いますが、3番の冒頭に『集まるわれら逞しく「終始一誠意」たゆみなく』と歌われています。校訓「終始一誠意」は、旧制丸亀中学校第6代阿部虎之助校長が制定したとされており、丸中校歌にも『我等がかざす旗じるし唯是終始一誠意』とあります。正門左側には、大正天皇即位記念事業の一環で建てられた校訓碑があります。大正4年、丸亀市広島から送られてきた原石を生徒たちが牛車に綱をかけ、引っ張ってきたものであり、碑文の揮毫を京極高徳子爵にお願いしました。
 このように、「終始一誠意」は古くから愛唱され親しまれた言葉であり、諸先輩は、「終始一誠意」を具現化することに全力を尽くしてきました。何事にも、最初から最後まで、一生懸命に取り組む姿勢の大切さは、今も昔も変わらないと思います。
 さて、「丸高文化祭」が「斯文祭」と改称したのは昭和60年度の文化祭からです。そもそも「斯文」は、孔子の「論語」の「子罕第9の5」に出てくる言葉であり、孔子が弟子と一緒に賊に襲われた際の孔子の言葉である「斯文在茲」からきています。「斯文在茲」を意訳すると「私(孔子)は、周の文王の文化を受け継いでいる。文化はここ(私)にある。文化そのものである私を殺せるはずがない。」ということになります。「斯文在茲」を直訳すれば「その文化はここにある」となるのですが、「文化はここ(私)にある。私(孔子)を殺せるはずがない。」ということから、孔子の時代の文化は永遠に不滅であるということを意味しています。そこで、文化祭を「斯文祭」と称することで、文化の永遠を、そして誇るべき丸高の存在を「丸高ここにあり」と訴えようとしたわけです。従って、丸高生にとって「斯文在茲」とは、丸高の文化を大いに高め、全国に否世界に通用するものにしよう、丸高を文化の発信基地にしようという精神なのです。
 「斯文祭」の意味を理解した上で、企画・運営に当たることができれば、文化の薫りを感じながら「斯文祭」を楽しめるのではないでしょうか。なお、記念館の2階には、「斯文在茲」の扁額が掛けられています。
 「終始一誠意」「斯文在茲」という二つの言葉は、丸亀高校で学んだからこそ、その意味を理解し、使うことができる言葉だと思います。心の片隅に留めて置いていただければ幸いです。

 平成30年2月20日(火)
 昨年8月に発行した定時制の生徒会新聞に記載した内容です。
               目 的 と 目 標
 昨年度の冬休み前の校長講話において、「目的」と「目標」について話した。この内容については、ぜひ、文字にして残しておきたいと考え、ここに記すこととした。
 「目的」と「目標」の違いは、端的に言えば、「目的」は「何のために」であり、「目標」は「何を目指すか」である。
例えば、「高校を卒業する」というのは「目的」「目標」のどちらだろうか。これは「目標」である。では、高校を卒業する「目的」は何か。言い換えれば、何のために高校を卒業するのか。私は、「一人前の社会人になるため」であると考えている。
 すなわち、「一人前の社会人になるため(目的)に高校を卒業する(目標)」ということになる。決して「就職するために卒業する」のではない。「就職する」ことは目標ととらえるべきであり、目的とともに考えると、「一人前の社会人になるために就職する」、「人の役に立つために就職する」となろう。
 「目的」と「目標」の違いが理解できたであろうか。目的には終わりがない。「一人前の社会人になる」「人の役に立つ」いずれも永遠のテーマであり、達成できた時点を決めることはできない。一方、目標は到達点でありゴールである。「一人前の社会人になる」という目的に向けたゴールの一つが高校を卒業することなので、高校を卒業することが目的になってはダメである。なぜなら、高校を卒業したら、そこで終わってしまうから。
 言い換えれば、目標とは、終わりのない目的の途中にあるステップということになる。「一人前の社会人になる」という目的の一つのステップが「高校を卒業する」という目標であり、そのステップがクリアできれば次のステップが待っている。例えば、「上級学校に入る」、「上級学校で○○を身に付ける」、「就職する」、「仕事で○○をやり遂げる」などの目標である。
 ここで、「就職する」という目標に焦点を当ててみる。その目的として、「お金を稼ぐため」「生活するため」も間違いではない。しかし、やはり、私は、先ほど述べたように「一人前の社会人になるため」「人の役に立つため」に「就職する」と考えている。従って、就職すればそれで終わりではなく、仕事をする際には、常に「自分は一人前の社会人として成長しているのだろうか。」「自分は人の役にたっているのだろうか。」と意識する必要がある。すなわち、いかに良い仕事をするか、人の役に立つ仕事をするかが大切である。このことが、いわゆる「やりがい」や「自己実現」につながり、その充実感は、さらなる意欲を湧き立てる。
 高校時代も同様である。「高校を卒業する」という目標を達成しようとするときに、「一人前の社会人になるため」という目的があることを忘れないで欲しい。そうすることで、一人前の社会人になるためには、どのような高校生活を送らなければならないかを考えることができる。
 皆さんが日々、成長することを期待している。

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